「とある専従者」様からの投稿企画「中学生から読める訴状解説」①

訴状解説

応援隊ブログ宛に、「共産党松竹裁判」の訴状を読まれた方が匿名でわかりやすく解説文を送ってくださいました。長文となるために連載でお届けしたいと思います。今回は第1回目です。

ぜひ、お読みになっての感想をお寄せ下さい。
(応援隊ブログ編集部)

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松竹伸幸さんが起こした訴訟の「訴状」を読んでいきます。
 そのまま読んでも十分わかりますが、とっつきにくいことばや理屈がチラホラあるので、ここでは、そうですね、中学生くらいでも読めるように解説していきます。
●登場人物は、
・裁判をおこした人(原告)は松竹伸幸さん。
・おこされた人(被告)は日本共産党(代表は議長の志位和夫さん)。

●松竹さんが裁判で求めているものは、
①松竹さんを日本共産党の党員にもどしてください。
②共産党は、松竹さんにつぐないとして550万円はらってください。

●どうしてその裁判をおこしたか、かんたんな事情と理由
 日本共産党の党員だった松竹さんが2023年2月に「共産党の党首を党員みんなでえらぶ制度をつくってほしい。その選挙制度ができれば、私(松竹)も立候補して党首になろうと思います」という趣旨の本を出版しました。

 ところがその本を出したために共産党から「共産党の党内ルール(規約)に違反した」といわれ、共産党から追放(除名)されるという仕打ち(処分)を受けました。
 松竹さんは、その処分のやり方も、処分の「理由」としてあげられている中身も、法律違反(違法)だと主張して裁判をおこしました。違法なので処分は無効だったと認めてくださいと求めました。

 また、共産党は自分たちの新聞(しんぶん赤旗)で松竹さんの名誉を傷つけることをくり返し書いたので、松竹さんにつぐないのお金を共産党ははらうべきだということも、松竹さんは求めました。

●裁判であらそう3つの柱
 裁判では大きくいって、次の3つのことが争いになるでしょう。
(1)そもそも、コレ、裁判になるのか?
  松竹さん「裁判になる!」 共産党「ならない」
(2)処分の手続きがおかしいのでは?
  松竹さん「おかしい!」 共産党「おかしくない」
(3)処分の理由の中身がおかしいのでは?
  松竹さん「おかしい!」 共産党「おかしくない」

第1の柱 そもそも、コレ、裁判になるのか?

 世の中にはいくら争いごとでも裁判にならないことがあります。
 例えばAさんは俳句サークルの会長になりたかったけど、そのサークルでBさんが会長になってしまったとして、「おかしい!」と怒ったAさん。果たしてAさんは裁判所に裁判をおこしてこの件を争えるでしょうか?

 「もちろん、りっぱな裁判になるよ」という気もするし、「いやいや、そんなのサークル内で解決してよ」という気もしますよね。
 「そもそもこの事件は裁判で争えるの?」(「争訟性」があるかどうかといいます)——これが松竹さんの裁判では争点の一つになります。
 えっ? そんな入り口のところも争いになるの? とびっくりされるかもしれません。これには理由があります。

(1)過去の最高裁判所(最高裁)の判決では「そんなの政党の中で解決してよ」という判決が出ている
 袴田里見さんという副委員長だった人が共産党を除名され、共産党から住む家をあたえられていたのですが、袴田さんが共産党から「出ていってください」と言われ、裁判で争った事件があったのです。その判決が1989年に最高裁で出ています(共産党袴田事件)。

 それは「除名とかの処分は、原則として政党のなかで解決してください」「政党内部でやった処分が、国や社会の法の秩序をこわさないようなものなら、裁判所はそうした政党の中での争いには口をはさみません」という趣旨の判決だったのです。つまり「そんなの政党の中で解決してよ。裁判所にもちこまないで」という判決です。

 これは、社会全体ではなく、その社会の中の、「団体」とか「政党」とか「サークル」とかいった小さな社会(部分社会)に自分からのぞんで入った以上は、その小さな社会の中でのルールにしたがってね、また、その小さな社会で決めていることにいちいち裁判所は口を出しませんよ、という考え方で、「部分社会の法理」とよばれます。

 一般社会ではどんな服でも自由に着る権利があるはずなのに、高校に入ると制服を強制されますよね。それに似ています。
 最高裁でくだされた判決はとても重いものです。法律と同じくらい強い力があります。
 とうぜん共産党は「ほら、最高裁の判決があるでしょ。だから、松竹さんの訴えは、そもそも裁判所の裁判で争うのにはふさわしくないんですよ」と言います。メディアのコメントなどでもそう言っていますよね。

 だから、そもそも裁判になじむかどうかが入り口で争われるのです。じつは共産党袴田事件のあとも、ほかの政党で、除名処分などをあらそった事件があったのですが、どれもこの「部分社会の法理」でしりぞけられています。

 最高裁判決ですから、それにそった判決になるのは、いたしかたないところがあります。今回の松竹さんの裁判は、それをくつがえそうというのですから、かんたんな仕事ではありません。
 ではそんな判決がすでに出ているのに、松竹さんにはどういう言い分があるのでしょうか?

(2)「いやいや裁判になりますよ」という松竹さん側の言い分
 松竹さんの言い分は、かんたんにいえば「日本国憲法には“国民は裁判を受ける権利があるよ”(32条)と書いてあるじゃん」「そして“どんな紛争も法律にあってるかどうかをみて解決する権限(司法権)を裁判所は持っているよ”(76条1)とも書いてあるじゃん」ということです。

それなのに「グループ内のルールで解決すればいいから、法律は関係ない」とか「裁判は受けさせない」とか、おかしいでしょ、ということなのです。でも、「部分社会の法理」をみとめた最高裁判決にもそれなりに理屈がたっているようにもみえますよね。
 そこで、松竹さんは「最高裁判決がいうような話は、キビしい条件がついたときに限るべきです」と言っています。どんなときでしょうか?

●裁判しなくていいというのは、憲法になにか根拠がある場合に限ります
 なんでもかんでも団体やサークルが決めればOKなら、裁判を受ける権利や司法権は意味がなくなってしまいます。なので、「裁判にはなじまない」といえるのは、憲法になにか根拠がちゃんと書いてある場合に限るはずです。これは松竹さんが勝手に考えたことではなく、最高裁の裁判官が判決の中で意見と
してのべていることでもあります。

 「憲法になにか根拠があれば、裁判を受ける権利や司法権は制限してもいい」——これが松竹さんの主張する「キビしい条件」です。
 裏返せば、憲法に根拠がなければ、裁判をちゃんと受けさせて、法律に合っているかどうか、裁判所はしっかり判断してくださいね、という意味でもあります。

●政党は憲法に定めがないので「憲法に根拠がない」と言えますよね
 共産党は政党です。しかし、政党は憲法になにか定めがあるわけではありません。どこを読んでも日本国憲法に「政党」について書かれたところは見つかりません。ということは「憲法に根拠がない」ことになります。
 
 だから、政党のルールだからといって、裁判を受けさせないほどの特別扱いをする理由はありません。つまり、政党をめぐるトラブルは、きちんと裁判であらそわれる性格のものですよ、ということになります。

●「いや『結社の自由』という憲法上の根拠があるよ」という反論は成り立たちません
 この松竹さんの主張にたいして、こういう反論があるかもしれません。「結社の自由という定めが憲法(21条)にはあるじゃないか」。どういうことでしょうか?
 「結社の自由」というのは、国民がどんな団体・政党・サークル・グループをつくるのも自由です、国はそのことに口出ししません、という定めです。

 王様の力が強かった時代には、「国の政治に反対する団体をつくることは禁止する!」なんていう法律が平気でありました。でも、そんなことをやっていたら民主主義が育ちませんよね。それでどの国の憲法にもこういう定めがもりこまれるようになったのです。

 この定めをひっぱってきて「だから国は団体のことには一切口出しできないのだ。ほら、憲法上の根拠がちゃんとあるでしょ? だから団体のルールや団体で決めたことを裁判に持ち込んで、国が口出しするのはよくない」…こういう理屈が成り立ちそうです。

 だけど、果たしてそうでしょうか? 
 じつは過去の裁判を見れば、団体のこまかい取り決めやルールに口出ししているものなんてたくさんあります。
 たとえば1975年に、労働組合の組合費を臨時で集めることについて、組合員はそれにしたがう義務があるかどうかを裁判であらそい、最高裁は判決を出しているのです。そんなこまかいことまで裁判で口出しすんの…!? と思ったあなた、そのとおりですよね。

 だから、「結社の自由」を口実にして、「団体の中で決めたことを裁判であらそうことはできない」とはいえないことがわかります。

●2020年に「部分社会の法理」を変える判決が最高裁で出ています!
 しかも2020年に「部分社会の法理」を変える判決が最高裁で出ています。市議会や町議会などの地方の議会で、多数決によって、ある1人の議員を「議会に出席してはいけない」などの懲罰をくわえることがあります。そうなると、「めちゃくちゃな決定だ! おれをいじめるやり方はやめろ!」とトラブ
ルになりやすいわけです。それで「こんな懲罰は無効だ!」と裁判に訴えるケースがけっこうあるわけです。

 しかし、裁判に訴えても、多くはこの「部分社会の法理」によって、「地方議会が決めたことなので…」と裁判所は入り口でしりぞけてしまってきたのです。
 ところが、2020年に最高裁が、この「部分社会の法理」を変える判決を出したのです。

 これまでの判決でくりかえされてきた「自分たちでものごとを決めているような小さな社会や団体では、自分たちのことは自分たちで決めるべきなので、必ずしも裁判に訴えるのは適当ではありませんね」という趣旨の部分が、まるっとなくなったのです。

 しかも、「議会には一定の裁量がありますが…」というふうに判決には書かれていて、裁量(その人の考えによって判断し、処理すること)ではあるけど、「一定」=ある定まった範囲に限りますよ、という限定をしているのです。なんでもかんでも地方議会で決められます、とはしなくなったのです。こんなふうに、「部分社会の法理」はゼッタイに動かせないものではなく、

大きく変わりつつあるのです。


●政党のあり方は国民の重大な関心事だから、裁判所がかかわれないようにしてしまうとマズい
 1970年の最高裁の判決では「政党のあり方いかんは、国民として重大な関心事」と言っています。
そりゃ、そうです。

 国民が政治に参加するとき、すごく有力なチャンネルになるのが政党ですからね。
 個人がナマの形でかかわるんじゃなくて、まず好きな政党に入って、その集団のなかで党首や議員の候補選びにかかわったり、政策づくりに参加したりして、政党として政治にかかわる…というかかわり方がメジャーです。
 それなのに、政党がどんなことをやっていても、裁判所が一切かかわれないとしたら、マズいですよね?

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